2017年10月31日火曜日

古仁屋高等学校文化祭

  2017年10月28日(土)、鹿児島県立古仁屋高等学校(奄美大島・瀬戸内町)での文化祭で、生徒さん達が、よしだしずか作『とうめいケンムン』表紙絵のモザイク画を製作してくださいました。
 写真上が通常の状態、下がブラックライトをあてた状態。大きさは縦2メートル×横3メートルだそうです(※先生より写真画像を送っていただきました)。
 
 ここで(今更ですが)、『とうめいケンムン』のお話のあらすじをざっくりと。
 (ケンムンとは、昔から奄美の森にいる妖怪。ガジュマルの樹に棲む精霊のような存在です。画像の真ん中にいる、赤毛で毛むくじゃらの生物(?))
 昔は、人間の近くにもいたケンムンでしたが、人間に見つけてもらえなくなり、いつしか透明になってしまいます。長い間、ひとりで奄美の自然の風景を眺めるだけの日々でしたが、とある満月の夜、森の動物たちから声をかけられ、自分の存在を認識してもらえることにケンムンは喜びます。宴の夜が終わり、仲間たちとの次の再会を約束しつつ、人間とも、再び関わりをもちたいと思うケンムンなのでした。

 文化祭では、古仁屋高校のある瀬戸内町が、戦時中「奄美大島要塞」であったころについて生徒さん達が調べた学習発表の一環で、最後に「奄美の自然はどんな未来を望んでいるのか」というメッセージを込めたモザイクアートのモチーフとして、私の絵を使用していただきました。
とても光栄です。そして、私の絵を本当に忠実に再現してくださって、すごい!のひとことです。調査と、そのまとめの発表に加え、モザイクアート。なんと内容の濃い発表なのでしょう! …文化祭、行きたかったなぁ!
 このあと、瀬戸内町の文化祭でも展示されるそうです。 お近くの方は、足を運ばれてはいかがでしょうか(^^)
 

2017年10月22日日曜日

とびんにゃ

 奄美へ行くたび、いつも美味しくいただいていた“とびんにゃ”という貝があります。正しくは、『マガキガイ』というらしいです。
(※大きさは 5cmくらい)
 先日、京都水族館へ行きましたら、チンアナゴの水槽(写真はニシキアナゴ)に、気になる貝を発見。…この貝殻の形状は、もしや、あの、美味しい美味しい“とびんにゃ”では…?
 水族館のスタッフさんが、ちょうど餌やりをしていたので、貝の名前を聞いたのですが、ピンと来ず…「奄美で食べたトビンニャに似ている」と話すと「それです!…美味しかったですか?私はこの姿を先に見ているので食べられなかったのですが」と話してくださいました。…たしかに。先にこの姿を見ていたら、食べにくいかも…。
 まんまるいお目目をカタツムリのようにニョキっと出して、ゾウさんの鼻のように口を伸ばして、餌をついばんでいます。か…かわいい…♡
 でも本当、とびんにゃくんは、とっても美味しいのです。

2017年10月18日水曜日

母のこと

 ワタクシゴトですが…。
 8月に母が他界しました。先日、四十九日法要を終え、少し落ち着いてきたところです。

 尊敬する母でした。最期まで、尊敬できる母でした。

 子どもの頃は、私は親にさえ人見知りする子どもで、親のことがあまり好きな訳ではありませんでした。オトナになってから、とくに、京都へJターンで帰ってきてから、親と過ごすことが多くなり、母のことも、今更ながら大好きになりました。
 親の望む道をことごとく進まなかった私ですが(まず、親は私を舞鶴から出したくなかったのに東京の学校へ行ったところから始まり、不安定な職につき、なかなか結婚しない、等々)、それでも、いつも大きな心で、あたたかく見守ってくれました。
 両親と京都で一緒に暮らすつもりでしたが、なかなか叶わず、今年4月、母も京都に住民票を移してくれて晴れて同居になったのを喜んだときには、ただただ病院に入退院を繰り返す状態になっていました。
 医師からはホスピスを勧められていましたが、母の希望もあってできる限り自宅で介護 したいと思いました。けれど、介護らしい介護さえさせてもらえないままでした。病気で相当苦しくてしんどかったと思うのですが、最期まで、驚くほど、シッカリしていました。 思い出すのは、一緒に過ごせて嬉しかった気持ちばかりです。
 なにもできなかったけれど、母をマッサージするのが日々の喜びでした。

 突然、母が居なくなり、未だに実感がありません。幸いなのは、最期、苦しむ様子もなく、穏やかな顔だったこと。これも母の希望で、葬儀は家族葬にしました。親戚にもご理解をいただいて、家族だけでたくさん泣いてたくさん笑って、満足のいく送り方ができたこと。
 おしゃべりが大好きな母でした。笑顔の遺影が、いまにも喋りそうで、本当に未だ実感がありません。しかし、母ならどうするだろうとか、母なら何て言うだろう、とか、だいたいの予測はつくので、母は、私たちの心に、ずっと生きているのだと思います。

 四十九日が過ぎて、少し振り返って考え、強く感じるのは、生前も、いまも、母にもらったサポートの大きさです。家族だけでなく、人の世話ばかりして、人のために生きたような慈愛に満ちた人でした。明るくて、いつも楽しそうに生きていました。自分の母のことをこんな風に言うのもどうかと思いますが…自慢の母です。なぜ私のような欠陥人間が娘として生まれたのか謎なくらいです。私は、尊敬する母のようには、どんなに真似しようとしたってなれませんが、母の心は忘れずに生きていきたいと思います。

 長い間、病気に苦しんだ母でしたが、気丈に、生ききった ので、あちらの世界では、苦しみから開放されて、きっとあちらでも明るく楽しく過ごしていると信じています。