2017年10月18日水曜日

母のこと

 ワタクシゴトですが…。
 8月に母が他界しました。先日、四十九日法要を終え、少し落ち着いてきたところです。

 尊敬する母でした。最期まで、尊敬できる母でした。

 子どもの頃は、私は親にさえ人見知りする子どもで、親のことがあまり好きな訳ではありませんでした。オトナになってから、とくに、京都へJターンで帰ってきてから、親と過ごすことが多くなり、母のことも、今更ながら大好きになりました。
 親の望む道をことごとく進まなかった私ですが(まず、親は私を舞鶴から出したくなかったのに東京の学校へ行ったところから始まり、不安定な職につき、なかなか結婚しない、等々)、それでも、いつも大きな心で、あたたかく見守ってくれました。
 両親と京都で一緒に暮らすつもりでしたが、なかなか叶わず、今年4月、母も京都に住民票を移してくれて晴れて同居になったのを喜んだときには、ただただ病院に入退院を繰り返す状態になっていました。
 医師からはホスピスを勧められていましたが、母の希望もあってできる限り自宅で介護 したいと思いました。けれど、介護らしい介護さえさせてもらえないままでした。病気で相当苦しくてしんどかったと思うのですが、最期まで、驚くほど、シッカリしていました。 思い出すのは、一緒に過ごせて嬉しかった気持ちばかりです。
 なにもできなかったけれど、母をマッサージするのが日々の喜びでした。

 突然、母が居なくなり、未だに実感がありません。幸いなのは、最期、苦しむ様子もなく、穏やかな顔だったこと。これも母の希望で、葬儀は家族葬にしました。親戚にもご理解をいただいて、家族だけでたくさん泣いてたくさん笑って、満足のいく送り方ができたこと。
 おしゃべりが大好きな母でした。笑顔の遺影が、いまにも喋りそうで、本当に未だ実感がありません。しかし、母ならどうするだろうとか、母なら何て言うだろう、とか、だいたいの予測はつくので、母は、私たちの心に、ずっと生きているのだと思います。

 四十九日が過ぎて、少し振り返って考え、強く感じるのは、生前も、いまも、母にもらったサポートの大きさです。家族だけでなく、人の世話ばかりして、人のために生きたような慈愛に満ちた人でした。明るくて、いつも楽しそうに生きていました。自分の母のことをこんな風に言うのもどうかと思いますが…自慢の母です。なぜ私のような欠陥人間が娘として生まれたのか謎なくらいです。私は、尊敬する母のようには、どんなに真似しようとしたってなれませんが、母の心は忘れずに生きていきたいと思います。

 長い間、病気に苦しんだ母でしたが、気丈に、生ききった ので、あちらの世界では、苦しみから開放されて、きっとあちらでも明るく楽しく過ごしていると信じています。